マルタ遠征(1854年)の指揮官は、イギリスの英雄と謳われたラグラン卿で、ウェリントン公の軍事秘書を務めていた。ラグランは勇敢で、ワーテルローで外科医が麻酔なしで彼の片腕を切り落としたとき、「わが片腕を持ってきてくれ。妻がくれた指輪が指にはまっているはずだ」とだけ言ったという。(『戦争報道の内幕 隠された真実』フィリップ・ナイトリー)
古代ギリシアから今日に到るまで、多くの人々によって唱えられてきた死をめぐる箴言(しんげん)がある。“人は自分の死を体験できない。体験できるのは他者の死だけである”。この箴言が妥当視されてきたからこそ、古代の宗教祭典において人々は動物や時には人間の惨殺を凝視することで自身の死を疑似的に体験し、中世社会では「メメント・モリ(死を想え)」が時代的な標語となった。(『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』小松美彦)
ジェロニモについて行きたければついけ行けばいいし、いきたくなければ、行かなくていい。一人ひとりに権限があるので、それぞれがやりたいようにする。「するべきだ」という言葉はアパッチ族の言語に存在しない。「強制する」という概念は、彼らには理解しがたいものだ。(『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム:糸井恵訳)
インディアン
インディアン
彼らは相場観に基づいたトレーディングはけっして行なわない。
「マーケットで成功するには、市場に身を任せることです」
身を任せるということは、ある意味では放棄することです。それは、マーケットに対する意見、判断、そして結論をすべて放棄することです。これは大変難しいことなのです。
(『ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論』J・ウエルズ・ワイルダー・ジュニア:長尾慎太郎訳)
「マーケットで成功するには、市場に身を任せることです」
身を任せるということは、ある意味では放棄することです。それは、マーケットに対する意見、判断、そして結論をすべて放棄することです。これは大変難しいことなのです。
(『ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論』J・ウエルズ・ワイルダー・ジュニア:長尾慎太郎訳)
日本に手持ちのドルを売り切らせる作戦として、日本の国家破綻に煽られ円高が最も進んだ段階でドル資産の売却をしてくれれば、日本にとって最大の実現損となり、それはとりもなおさず米国にとって最大の実現益となる。借金から解放されて身軽になった米国はまた新たな借金をすべく、ドル高のステージを演出して世界中から資金を集めることだろう。今でも世界最大の米国の金保有額であるが、そして2011年になってメキシコ中銀までもが100トンほど金を購入していたことがIMFのデータによって明らかとなった。地域通貨(※アメロ)としての金本位制度復活ならば辻褄があう。それでも現代の経済規模から考えると、かつてのような100%の本位制では実物の金が足りないため、部分本位制を採用するしかない。(『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓)
為替/ゴールド
為替/ゴールド
「アフォーダンス理論」によれば、私たちは「眼で見ているのではない」し、「耳で聞いているのでもない」ことになる。そうは言っても、もちろん、アフォーダンス理論には読者を幻惑する神秘的な部分は一つもない。むしろ現在のところ、もっとも「科学的」で「真実に近い」知覚についての説明である、と筆者は思う。(『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人)
日本では、「量的緩和はマクロ経済効果がない」という日銀の考えが定説になっているため、いつまでもデフレから抜け出すことができないでいる。
またリーマン・ショック以降、各国中央銀行は通貨を増やしているが、日銀だけが増やしていないために、円はほとんどの通貨に対して円高になっており、これも不況を抜け出せない原因となっている。
(『高橋教授の経済超入門』高橋洋一)
またリーマン・ショック以降、各国中央銀行は通貨を増やしているが、日銀だけが増やしていないために、円はほとんどの通貨に対して円高になっており、これも不況を抜け出せない原因となっている。
(『高橋教授の経済超入門』高橋洋一)
ここでのハイゼンベルクの飛躍は、アインシュタインが成し遂げた例の飛躍を思い出させる。あのときアインシュタインは、自明と思われていた時間と場所の観念をもう一度じっくり検討したから、相対論へと導かれたのだ。当然とされていることを疑問視するのが、おそらくは天才のしるしなのだろう。(『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー:阪本芳久訳)
そのとき、私に一つの啓示がありました。
「苦しみ闘う人々の支えになる音楽……それは、誰よりも苦しみ闘った者の手からしか決して生まれえないのだ! そんな音楽を成しえたいと望むのなら、その『闇』に満足し、そこにとどまれ!」
神の声がハッキリそう聞こえたのです。もちろん「闇の中の心の耳」で。
(『交響曲第一番』佐村河内守)
「苦しみ闘う人々の支えになる音楽……それは、誰よりも苦しみ闘った者の手からしか決して生まれえないのだ! そんな音楽を成しえたいと望むのなら、その『闇』に満足し、そこにとどまれ!」
神の声がハッキリそう聞こえたのです。もちろん「闇の中の心の耳」で。
(『交響曲第一番』佐村河内守)
その瞬間、なにを思ったか、フェーナーはあとで正確に思いだすことができなかった。心の奥底で、その金属が固く鋭く光りはじめた。その光のなかで、すべてがはっきり見えた。まばゆいほどに。(『犯罪』フェルディナント・フォン・シーラッハ)
わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。(『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット:屋代通子訳)
キリスト教
キリスト教
どんな動物においても、捕食者の数やその恐ろしさを見積もったり、二つの食物源それぞれから得られる食物量を推測して比較したりすることは、生死に直結する問題であるはずだ。(『数覚とは何か? 心が数を創り、操る仕組み』スタニスラス・ドゥアンヌ:長谷川眞理子、小林哲生訳)
アンジェロウはテレンス・アファーの言葉を引用して締めくくることが多い。テレンスは古代ローマに奴隷として連れてこられたアフリカ人で、最後には自由の身となった人物である。「私は人間だ。人間に関わることであれば、私には無関係ではない」。(『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』デヴィッド・ボーム)
「わたしたちは、耳が聞こえる人たちを“外の世界の人”と呼ぶの。でも、“外の世界の人”のなかには、わたしたちみたいな人もいるのよ」
「どういう人間たちのことをいうのかね?」
「自分の心に従って生きてる人たちのことよ」
(『静寂の叫び』ジェフリー・ディーヴァー)
「どういう人間たちのことをいうのかね?」
「自分の心に従って生きてる人たちのことよ」
(『静寂の叫び』ジェフリー・ディーヴァー)
スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味がふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。(『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ)
仏教/スッタニパータ
仏教/スッタニパータ
100人の死は悲劇だが
100万人の死は統計だ。(アイヒマン)
ジェノサイド(大量虐殺)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、【ひとりひとりの死】がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものだ。
(『望郷と海』石原吉郎:岡真理解説)
詩歌/シベリア抑留/強制収容所
100万人の死は統計だ。(アイヒマン)
ジェノサイド(大量虐殺)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、【ひとりひとりの死】がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものだ。
(『望郷と海』石原吉郎:岡真理解説)
詩歌/シベリア抑留/強制収容所
これらの先生方は「六師外道」といわれる人たちです。仏教では、六師外道を「仏教以外の教えを説いている6人の先生」という程度の意味で使っています。でもここに登場する人々は、外道という蔑称で簡単に切り捨てられるものではありません。本当は、インドの当時の宗教世界の革命家として、厳密に考えなくてはいけない人々だったのです。(『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ)
あなたは雪の色は「白」だと思っているかもしれないが、実際には無色透明だ。(中略)
では、白く見えているところは何かというと、それは雪の結晶のふちや角の部分、つまり「エッジ」だ。光はエッジ部で拡散する。雪が白く見えるとき、あなたはあらゆるエッジから拡散する光を見ていることになる。
(『雪の結晶』ケン・リブレクト:矢野真千子訳)
では、白く見えているところは何かというと、それは雪の結晶のふちや角の部分、つまり「エッジ」だ。光はエッジ部で拡散する。雪が白く見えるとき、あなたはあらゆるエッジから拡散する光を見ていることになる。
(『雪の結晶』ケン・リブレクト:矢野真千子訳)
登録:
投稿 (Atom)