佐藤●ストーリーを思い出してください。飛雄馬は「思い込んだら試練の道を」行きますよね。その行路には内省の契機を見出せません。そしてその道を進めば進むほど、親友であるはずの伴宙太との関係もメチャクチャになるし、飛雄馬をとりまく人々の恋愛はうまくいかなくなります。最後は彼自身も廃人になる。本人は「主観的には」いいことをやっていると思い、正義の実現に走っていても「客観的には」周囲の関係性は壊れ、破滅してしまう。ですから、私はウサマ・ビンラディン的な「星飛雄馬」とイエス的な「ねずみ男」どっちの生き方を選ぶかと聞かれたら、ためらうことなく、ずるい「ねずみ男」を選びますね。(『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき佐藤優、魚住昭)
 また、バビロニア人が六十進法における位取り記数法を心得ていて、零にあたる記号をも、ある程度まで、用いていたことは、紀元前2世紀ごろ彼らによってつくられた満月の表から知られるのであるが、この記号は単に空位をあらわす純然たる記号だけにとどまって、計算には一切用いられることがなかった。のみならず、バビロニアのこの記数法は後代に伝えられて一般に普及されるということもなかったのである。(『零の発見 数学の生い立ち』吉田洋一)
 スティグリッツ氏自身の経験によれば、エチオピアで初の民主的選挙で大統領が選ばれた際、世界銀行とIMFは新大統領と経済政策について協議した。その時、世界銀行とIMFは「海外からの援助金をアメリカ財務省の特別口座に預け入れるように」と命令したという。そうすれば4%の利息が支払われるとの提案だった。
 しかし、エチオピアがアメリカの民間の金融機関から援助の一環として受けることになったドル融資には、12%の金利が付けられていたのである。世界銀行とIMFの言うことを聞けば、差し引き8%の金利となり、エチオピアの財政は新政権の発足から大赤字になることは明々白々であった。
 当然のことながら、エチオピアの大統領は「国民の生活を改善するために融資を使いたいのでアメリカの財務省に預けることは勘弁してほしい」と懇願した。しかし、その願いは受け入れられず、アメリカの銀行から融資されたドルはそのままワシントンの財務省の口座に移し換えられたのである。
 これが事実とすれば、「世界銀行IMFはアメリカ帝国主義の手先だ」とするデモ隊の批判も一理あるといえよう。ちなみに、この衝撃的な内部告発をしたスティグリッツ氏は2001年のノーベル経済学賞の受賞者であり、決して根拠のない問題提起をしているとは思えない。
(『通貨バトルロワイアル』浜田和幸)
 野生チンパンジーに対する先入観は、さらにくつがえされる(1970年代、日本人研究者によって)。それまでチンパンジーは、平和的な生きものだと思われており、一部の人類学者はそれを引きあいに出して、人間の攻撃性は後天的なものだと主張していた。だが、現実を無視できなくなるときがやってくる。まず、チンパンジーが小さいサルを捕まえて頭をかち割り、生きたまま食べる例が報告された。チンパンジーは肉食動物だったのだ。(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源フランス・ドゥ・ヴァール
 こういうことを見きわめる用意がありますか? この問題に入りこんでゆきたいと思いますか? ほんとうですか? そうだとすれば、むしろ私にとっては驚きです。なぜならあなたがたは、心理学者や司祭や指導者たちからいつでも教示され、知らされ、何をするのかを告げられてきているからです。常に助けを求め、助けてもらえる新しい方法を見つけているからです。ですからわれわれは、他人の奴隷になったのです。探し求める自由などいっさいなく、心理的に完全に自立することもないのです。(クリシュナムルティ)『クリシュナムルティ・開いた扉メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳
「常に問い、深く疑え――ことに自分自身の動機を」。(ドリス・プラットがバイロン・カッセルベリーに宛てた手紙)『クリシュナムルティ・実践の時代メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳

クリシュナムルティ
真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです。(『クリシュナムルティ・目覚めの時代メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳)

クリシュナムルティ
 面白いことにこの孤独という英語 alone はすべてひとつ all one という意味のラテン語、ギリシャ語から来ているのです。外形は孤独であっても、内形である心は全体とひとつにつながっているということで、これは孤立とは違います。(『クリシュナムルティ 人と教え』クリシュナムルティ・センター編)

クリシュナムルティ
 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。(『洗脳原論苫米地英人
 考察すること一般を、俗に「分析する」といったり(政治分析、経済分析、現状分析など)、理解すること一般を「分かる」といったりするのであるが、ただ、やみくもに分析したり分解したりすることで、つまりバラバラにすることで「わかった」ということにはならない。分析といっても、分析することで原理に到達し、そこから再構成してみてはじめて、「わかった」ということになるのである。そしてこの基本線は、アリストテレスからデカルトまで、古代哲学から現代科学まで貫かれているといってよいであろう。(『「分ける」こと「わかる」こと坂本賢三
 息子のパートナーを私は絶対に嫁視しない。嫁という言葉も内実も私で断(た)ち斬(き)らねばならないと思う。息子の仲立ちで出会った大切な女友だちであると同時に、ありのままのすべて、存在そのものが愛(いと)しいわが子が3人になっただけ。つまり、彼女に教え覚えてもらうようなこちらの「文化」はなに一つ持たない。(『寝たきり婆あ猛語録門野晴子
 大切なことは、生命のシナリオに書かれている情報の大部分は、生物の最終的な形や習性そのものではなく、それらの形や習性を生み出す蛋白質のつくり方に関するものである、ということです。(『DNAがわかる本中内光昭
 矛盾した信念と誤った意識は、心のソフトの傷ついたプログラムに当たる。このプログラムでは集中力を維持できず、目的を達成する能力を破壊してしまう。一方の足でアクセルを踏みながら、もう一方の足で同時にブレーキを踏んでいるようなまねをする。そして最初はトレード方法の習得が楽しく、挑戦という神秘性が魅力的に映るが、やがて正真正銘の怒りへと変わってしまう。(『ゾーン 相場心理学入門』マーク・ダグラス:世良敬明訳)
佐藤●では、ニュースソースは誰か。この種の話はきちんとしておいたほうがいいと思うので、あえて踏み込んでお話ししますが、ロシアには科学アカデミーという組織があります。ロシアの最高学府はモスクワ大学で、そこでは東京大学よりもエリートの絞り込みが行われていますが、そのモスクワ大学よりもさらに絞り込んでいるのが科学アカデミーですね。たとえば民族学人類学研究所なら研究員は600人、大学院生は6~7人しかいない。年によっては入学試験合格の該当者なしということもあります。つまり、そこの大学院(3年制)に入学すれば研究者もしくは大学講師の道が保証される。大学は教育研究機関ですが、科学アカデミーはそれより一段上の研究機関なんです。
 その科学アカデミーの中に、東洋学研究所というのがあるんですね。日本の仏教研究などを行っているのですが、それと同時に、いわゆるオリエンタリスト(東洋学者)というのは各国の植民地支配の手先になったので、常に諜報と深く関係している。諜報員が擬装に使う研究所でもっとも多いのは、科学アカデミーの東洋学研究所なんです。
(『インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一、佐藤優
 通常、私たちはある物事に対して、感情を働かせます。「小さい危険」には小さな不安、「大きい危険」にはそれなりの不安を感じるでしょう。それは個人差こそあれ、他の人とそれほど大きな差はないのです。
 ところが元気な人なら「小さい危険」と感じるような刺激でも、うつ状態の人は「たいへん大きな危険」と感じてしまうのです。
 ですから周囲にとっては、たいしたことがない出来事でも、うつ的思考の人にとっては、とても不安で、嘆き悲しむ出来事のように感じられてしまいます。些細なことでも今まで以上に過敏に悩むようになってしまうのです。さらに何の手立ても打てない自分に対し、自信が失われてきます。すると、また問題に対して不安が増大するという悪循環に陥るのです。うつ的思考に陥ると、外的な環境は何も変わっていないのに、悩みが急激に深くなっていきます。
(『相談しがいのある人になる 1時間で相手を勇気づける方法下園壮太

カウンセリング
【アイコン】Icon/(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。
 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。であるからして、漢字および仏教文化圏に住む者の一人として、私は、思い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして業界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。
 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト教原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。
 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉に耳を傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。
 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコ難しいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。
 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実感させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。
(『コンピュータ妄語録小田嶋隆
養老●これもとてもおもしろいのですが、神経内科の医者であるオリバー・サックスという人が書いていますけど、聴覚の落ちた人を見ていて、非常にはっきりした特徴が二つあったというんです。一つは、彼らは因果関係の理解が非常に遅い。僕は昔から、因果関係は耳だと言っていたんですが、まさにそうなんです。耳というのは情報が時間的に配列されますから、理屈を説明するときには直列に順々と説くんですよ。ところが目というのは直感的に、同時並列で、つまり「百聞は一見にしかず」というのはそのことで、同時並列でポンとわかる。ところが、耳が聞こえないと因果関係がつかめない。(『「わかる」ことは「かわる」こと佐治晴夫養老孟司
 閉ざされている人間、自分の手で自分の心を閉ざしている人間とは、内部の人間のことである。なぜ内部にいるのか。自分の心が外部から傷つけられるのに耐えられぬからだ。その第一歩は臆病者、あるいは卑怯者であり、これはもっとも低級な種類である。外部から傷つけられぬためのもっとも簡単な経済的な防衛は、自分が外部からすっかり拒否されていると思いこみ、閉め出された状態に身をおくことである。いちばん受身の最小の地点、いちばん弱い地点、それがもっとも巧妙な隠れ場所なのである。(『内部の人間の犯罪 秋山駿評論集秋山駿
 まず、アメリカの科学者は宗教と進化論の関係をどうとらえているのか。1987年の『ニューズウィーク』誌によると、約48万人のアメリカ国内の地球学者、生物学者のうち、聖書の記述が科学的にも正しいとする創造論者は700人程度。つまり、専門科学者のうち進化論に疑念を抱いているものは、0.18%である。この数字を見る限り、アメリカにおいて現代の生物学における進化論は、科学者たちの目から見ても、確立され、十分に信用されている科学理論といえる。おそらく全世界の科学者を対象としたならば、疑念を持つ科学者の割合はさらに小さくなるであろう。同じく、Religious Toleanceの1997年のより広範囲の専門分野におけるアメリカ科学者に対する調査では、聖書における創造を文字通りに信じる者は5%、進化を認め、かつ、神を信じる者は33%、自然主義的進化を信じる者は55%という結果がある。次にアメリカの一般人を対象とする調査を見てみよう。アメリカ人1000人に行った1991年、1997年、2001年のギャラップ調査では、(A)「神は人間を現在の形のままに過去1万年前に一気に造られた」と思う人の割合がそれぞれ47%、44%、45%、(B)「人間は、数百万年をかけて未進化の状態から進化してきた、しかし、神がこの過程を導いて居られる」と思う人の割合がそれぞれ40%、39%、37%、(C)「人間は数百万年をかけて未進化の状態から進化してきた。神はこの過程には関係ない」と思う人の割合が9%、10%、12%、(D)「その他」4%、7%、6%という結果が出ている。(『神と科学は共存できるか?』スティーヴン・ジェイ・グールド:新妻昭夫訳)

科学と宗教
 われわれは弛緩の時代にいる。ぼくは時代の色彩のことを言っているのだ。(『こどもたちに語るポストモダン』ジャン=フランソワ・リオタール)
 すなわち貿易黒字では、輸入のドル買い(円売り)に勝る輸出のドル売り(円買い)が存在するということですから、市場は簡単には埋められない円高圧力を抱えていることになるのです。これは円高のトレンドを示します。(『矢口新の相場力アップドリル【為替編】矢口新

為替
 とはいえ、この説(ダーウィンの自然選択説)を絶対に受け入れない人たちもいる。米国では、大人の半分が、種の起源は神による創造だと考えている。ある研究では、大学卒業生の3分の1が、適切な人類学のコースを取った後でもなお、最初の人間が現れたのはエデンの園であり、「種の起源自体が神による創造だった」と考えていることがわかった。(『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム:春日井晶子訳)
小学生でもできる営業管理

「何だよ、この数字。もっと頑張れ!」、「今月はよかった。よくやった!」などなど……。
 確かに結果の悪い人を怒ったり、結果のよい人をたたえたりしてやる気を起こすことは、営業管理に必要です。しかし、数字の裏には努力だけがあるわけではありません。やり方と経験の有無、担当分野・地域・商品だけではなく関連業務やタイミングの問題など、いろいろな要素が重なった結果として数字が出ます。
 結果にしか興味がない営業管理をしていると、どんな結果が生まれるでしょうか。
 まず、社員は本当の情報をあげなくなります。どうせ結果が悪いと怒られるだけですから、あげても意味がありません。
 次に、管理職は怠慢になります。根性を入れてやれば何とかなると思い込み、戦法・戦術の研究を怠り、効率悪化を放置します。
 最後に、経営者は傲慢になります。モノが売れるかどうかは営業マンのやる気次第だと信じ込んで、自社の事業や製品の社会的意味を問わなくなり、顧客の気持ちを無視してしまいます。
 また、結果にしか興味がない営業管理をしていると、どんな企業になるのでしょうか。
 まず社員は、モチベーションが下がるでしょう。会社側は戦略、事業と仕組みについて努力しないのに、社員には犠牲を強いているからです。
 次に人材が育ちません。精神論信者が増え、管理職は権威と権限にしがみつき、井の中の蛙になるからです。
 最後に、経営者は裸の王様になります。過去の成功を人格やカリスマ性に結びつけ、その威厳を振りかざして組織を追い立て、営業現場や顧客の中で起きている小さな変化を読み取ろうとしなくなるからです。
(『やっぱり変だよ日本の営業 競争力回復への提案』宋文洲)
【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。(『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン)
「つまり、物理学や論理学の法則、それに数の体系や代数置換の原理……こういったものはすべて幽霊さ。信じているからこそ、現実に存在しているように思えるだけだ」(『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ)
 日本語の「いのり」という言葉の語源は、「生宣(いの)り」だと解釈されています。「い」は生命力(霊威ある力)、「のり」は祝詞(のりと)や詔(みことのり)の「のり」と同じで、宣言を意味しています。ですから、「いのり」は「生命の宣言」なのです。語源だけ考えると、日本語の「いのり」と欧米語の「祈り」(prayer,Gebetなど)とでは大きく異なり、欧米語の多くは「願う・頼む」という意味を中心に持っています。人生にはいろいろな悩みや難問が待ち受けていますが、「自分はめげずにがんばって生きるぞ」と宣言する、それが祈り(生宣り)です。そう「生命の宣言」をすると、遺伝子が活性化して、いきいき生きられるようになるはずです。(『人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている村上和雄、棚次正和)
 現在の日本経済の中核的な企業は、何らかの意味で戦時経済と深く結びついている。例えば、日本経済を代表する企業であるトヨタ自動車や日産自動車は、軍需産業として政府軍部の強い保護を受けて成長した。また、電力会社は、戦時経済改革の結果誕生した企業である。(『1940年体制 さらば戦時経済』野口悠紀雄)
 人は孤独になればなるほど、宗教的になることができる。(『仏教への道』松本史朗)
 警語は、時として熱語(ねつご)なることあり、冷語(れいご)なることあり、正語(せいご)なることあり、奇語(きご)なることあり、軟語(なんご)なることあり、硬語(こうご)なることあり、柔語(じゅうご)なることあり、豪語なることあり、温語(おんご)なることあり、痛語(つうご)なることあり、甘語(かんご)なることあり、苦語(くご)なることあり、倹語(けんご)なることあり、誇語(こご)なることあり、また、必ずしも毒語(どくご)、悪語(あくご)、邪語(じゃご)なるを妨げざることあり。要するに、これを発する場所と時機とに適応して寸分の過不及(かふきゅう)なく、凱切(がいせつ)にして徹底、人の胸を刺し貫いて、鋒尖(ほうせん)白く脊梁(せきりょう)に出ずるものなれば足れるなり。したがって、警語は如何なる場合にも決して冗漫なるを得ざるの約束に支配せらる。節の長短、調(ちょう)の緩急は、場合によりての手加減あるべしと雖も、必ず常に、十二分に鍛錬緊縮せられて、精髄を結晶せしめたるが如く簡潔純粋なるものならざるべからざるなり。(『日本警語史』伊藤銀月)
 ジェノサイドとは、古代ギリシャ語で種を表す genos と、ラテン語に由来し殺害を意味する cide を組み合わせた造語であり、一般に「集団殺害罪」と訳されている。それは、公人であれ私人であれ、犯した個人の刑事責任が問われる国際法上の重大犯罪である。ポーランド出身のユダヤ人法学者ラファエル・レムキン(1900~1958)がナチ・ドイツの暴力支配を告発するために著した『占領下ヨーロッパにおける枢軸国支配』(1944)でこの言葉を用いたのが嚆矢となり、その後、1948年の国連総会で採択された「集団殺害罪の予防と処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)を通して、これに法的な定義が与えられた。(石田勇治)『ジェノサイドと現代世界』石田勇治、武内進一編
 一日一日、まるですこしずつ幕があがって、すばらしい景色が見えてくるような気持ちだった。(「恋盗人」)『11の物語』パトリシア・ハイスミス
「趣味のいい者は、たいてい少数派だ」(『深海のYrr(イール)』フランク・シェッツィング)