歴史学では、その本人またはその同時代人の資料がいちばん大事です。けれども、この絵の場合、その主題についてのどんな資料も残っていないのです。契約書もないし、ミケランジェロも口をつぐんでいます。キリスト教会は、この頃、ルターが出現する直前で、危険なことや、異端や、宗教裁判や、さまざまな流派が渦巻いていて、予断を許さない状況でした。
 彼が生きていた1475年から1564年という時代は、おそら西欧最大の危機のひとつでした。彼は一生涯システィーナ礼拝堂に何を描(えが)いていたかいいませんでした。(中略)
 1498年にサヴォナローラが火あぶりにされ、1600年にはジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、1632年にはガリレオが裁判にかけられています。この有名な絵のほんとうの意味がわからなくなったのは、それが隠されたからです。これが書物だったら、だれにも意味がわかってしまうから、『薔薇の名前』のなかでボルヘがアリストテレスの本を隠したように、書庫のおくに隠すか、実際にたくさんの本がそうであったように焼かれてしまったでしょう。けれども幾重(いくえ)にも複雑な意味をもった、曖昧(あいまい)な芸術作品は、解読するキーをもっていない人にはただの美しい画面にすぎませんから、生き残ったのです。
(『イメージを読む 美術史入門若桑みどり
 私は思わず、これは現実の会話なんだろうか、それとも『権力――その獲得と活用』なる本の168ページでも読んでいるんだろうかと考え込んだ。たぶん、現実なんだろう。(『ピアノ・ソナタS・J・ローザン:直良和美訳)
 ブッシュ政権が行った減税のうち、高所得者中心の戻し減税では減税額のたった2割しか消費に回らなかったが、子育て世帯を対象にしたものは9割が消費に回ったのである。そして、この消費に回った金額が巡り巡って乗数効果によりGDPを押し上げることになるのであるから、適切なやり方での失業者支援や子育て世帯の支援は、人を育てると言う面でも、経済成長を促すという経済合理性の面でも非常に効率的であるということが言える。(『国債を刷れ! これがアベノミクスの核心だ廣宮孝信
 父の仕事の本質は、「区切ること」です。これと対になるという点で母の役割は「つなぐこと」ともいえるでしょう。
 父はまず、「この者たちに私は責任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分します。このことを指して「社会的父性」の宣言といいます。この宣言によって、ひとつの家族が成立するのですから、父の役割を家の塀や壁という区切りにたとえることができるでしょう。ついでにいえば、妻や子が雨露に濡れることから防ぐ屋根の役割といってもよい。いずれにしても家族を外界と区切るひとつの容器を提供することは父の機能です。
 第二に父は、是非善悪を区切ります。世に掟(おきて)をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事です。「父性原理」という言葉がありますが、これは父親のこうした機能を指して用いられるものです。
 父の仕事の三番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることです。父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大切にするという形で、この仕事を果たします。子どもは父のこの仕事によって、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することができるのです。
(『インナーマザー あなたを責めつづける心の中の「お母さん」斎藤学
 世の人々に「マラーノ=豚」とさげすまれながら、いつ「おまえはユダヤ教徒だ」と密告者に告発されるかもしれない状況の中で、彼らマラーノは、表面的にはカトリックに同調しながら、心の奥底ではそれに背いて、禁じられたユダヤ教を密かに信ずるという二重性を我が身に課するほかなかった。それは、あらゆる権威あるものから、市民的・日常的なものから、そしてついには自己自身の最も内的な本質からさえも疎外されるという恐るべき経験であった。とすれば、自己の内部でのこうした「追放」とは、現世的な人生からの流謫、人生の本道から外れて自己疎外という精神の曠野(こうや)を彷徨い歩く人間のむきだしの姿を表す言葉ではないだろうか。(『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から小岸昭

ユダヤ人
 チェマ神父は言います。
「子どもたちを救わなければいけません。本当に平和を願うのなら、兵士だった子どもたちへの見方を変えなくてはいけません。
 確かに、彼らは罪をおかしたかもしれません。でも、彼らは同時に犠牲者なんです。子どもたちは強制されて兵士になったのです。人殺しが好きな子なんて、どこにもいないのです。」
 わたしは、アンプティ・キャンプで出会った右手と両耳を失ったサクバーさんとの会話を思い出しました。わたしが、
「もし、今、子ども兵士が目の前にいたら、言いたいことは何かありますか?
 とたずねた時のことです。
 サクバーさんは答えました。
「おれはこう思うよ。彼らはまだ幼い子どもだし、何も知らずに兵士として使われたんだろう。
 もし、その子がおれの目の前にいたとしても、おれは彼を責めない。たとえ、そいつが知っている子だったとしても、おれは何もしやしない。
 おれたちはこの国に平和がほしいんだ。何よりも平和なんだ。それがすべてさ。
 彼らを許さなきゃいけない。でも、絶対に忘れることはできない。答えはいつも同じだよ。
 理由は、この右腕さ。
 朝起きると、おれはどうしてもこの切られた右腕を見てしまう。いやでも見えるからな。もともとおれには、2本の手があったんだ。だから彼らを許せても、絶対に忘れはしない。」
(『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白後藤健二

少年兵
 年をとる それはおのれの青春を
 歳月の中で組織することだ  ポール・エリュアール、大岡信訳
『途絶えざる詩II』(1935)所収。上記詩集は20世紀前半のフランスを代表するこの詩人の没後1年して刊行された。右の2行は700行近い長編詩「よそにもここにもいずこにも」の中にある。私は詩集刊行当時この詩を読み、何とか日本語に移そうと試みたが中途で挫折した。したがって右の詩句は未完の訳からという変則的なことになるが、ここに含まれる生への洞察に敬意を表して、あえて引用した。
(『折々のうた 第十大岡信

詩歌
 黒こげの焼死体から、うっすらと湯気がたち昇っていく。血や、体液が気化しかかっているのだ。今朝いよいよ発つという、まぎわまで読みつづけていた法花経も、万巻の書物も、父母も、友も、幼なじみも、自分らしさを裏打ちするはずの日々の記憶も、あっけなく消えていくだけなのか。燃えあがる図書館のようにすべてが滅び、炭酸カルシウムが残るだけか。蜜と灰か。ほんとうに、それだけなのかと私はまた、性懲りもなく自問する。脳裡に浮上した思いや、これだけは疑いようなく、ぎりぎりあると思える意識のさざ波が、いつか人類の阿頼耶識(あらやしき)となりうるのか。(『焼身宮内勝典
 脱獄についての取調べがおこなわれ、桜井も同席した。
 脱獄時刻は、桜井の推定通り看守が用をたしにいった午前0時50分から1時までの間で、外塀を乗りこえて逃走したことがあきらかになった。
 合鍵づくりについては、驚くべき方法がとられていた。かれは、入浴時に手桶にはめられていた金属製のたがをひそかにはずして房内に持ち帰り、かくした。ついで、入浴後、房に入る時に湯でふやけた掌(てのひら)を錠の鍵穴に強く押しつけ、その型をとり、さらに入浴中、臀部(でんぶ)をあらうふりをよそおってたがを床のコンクリート面で摩擦し、合鍵をつくった。
(『破獄 吉村昭
 これは、一見、大変に不可解なことだ。
 夫婦の結び付きがより強い(アメリカ人の)彼らのほうが、他人行儀な我々に比べて、断然、離婚しがちであるのだ。
「じゃあ、夫婦の愛って、いったい何なの?」
 と、初心者は思うことだろう。
 お答えしよう。
 夫婦の愛というのは、一種の無関心である。
 お互いに見つめ合って、語り合って、肩を抱き合って、愛し合って、それで夫婦が成立しているのであるとすれば、会話がとだえただけで、視線がそれただけで、あるいは愛情が幾分冷めただけで、別れなければならない。
 が、どっこい我々は別れない。
 同じ電車の中で、別々に座って、不機嫌に黙りこんでいる我々は、決して別れない。
 そういう、「別れないだけでいるだけの夫婦」が、日本中に山ほどいる。
 素敵だ。
 と私は思う。
(『「ふへ」の国から ことばの解体新書小田嶋隆
 人はそれぞれ相異なる現実をもつために、絶えず摩擦と対立を生じる。加えて、あらゆるものが劣化し、陳腐化する。これが現実である。したがって、ドラッカーが探し求めたものとは、不滅の真理ではなく、不完全な人間社会において相対的に機能する意思決定だった。
 見解からスタートせよとは、そのための手法である。なぜなら、相反する意思の衝突、異なる視点の対話、異なる判断からの選択があって、はじめて検討すべき選択肢が提示され、相対的に信頼できる決定を行う条件が整うからである。
(『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて上田惇生
「これらの人びとは非常に従順で、平和的であります」と、コロンブススペイン国王と王妃に書き送った。「陛下に誓って申し上げますが、世界中でこれほど善良な民族は見あたらないほどです。彼らは隣人を自分と同じように愛し、その話しぶりはつねにやさしく穏やかで、微笑が耐えません。それに、彼らが裸だというのはたしかですが、その態度は礼儀正しく、非のうちどころがないのです」
 当然こうした事柄は、未開のしるしではないにしても、弱さのあらわれとして受けとられ、廉直なヨーロッパ人たるコロンブスは、確信をもって、「これらの人びとが働き、耕し、必要なすべてのことをやり、われわれのやり方に従う」ようにしむけるべきだと考えた。
(『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン:鈴木主税訳)

インディアン
 ある思想の基礎的な土台は他者の思想なのであって、思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦なのである。もし思索をめぐらす存在が自己自身を振り返ってみるときに、一つの自由な煉瓦を見るだけで、この自由という外見を手にするためにその煉瓦がどれほど高い代価を支払っているかを見ないとすれば、それは思想にはよく似てはいるがその模像にしか過ぎないのである。なぜなら彼は手を加えられぬまま放置されている空地とか、残骸や破片の山積みを見ようとしないのだから。しかし実は彼は、臆病な虚栄心のせいで、その自分の煉瓦を後生大事に手にしたまま、そのような空地や残骸の山に遺棄されているのである。(『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ:湯浅博雄訳)

宗教
 電話は、元来、非常にプライベートなものだ。というよりも、我々のような狭っ苦しい土地に群れ集まって暮らしている人間たちにとっては、プライバシーと呼べるようなものは、せいぜいが寝室と便所と電話のまわりの少しばかりの空間の中にしか存在していないのだ。
 だから、我々は、「他人の電話に聞き耳を立ててはならない」という暗黙の了解事項を、必死になって守っている。ベッドサイドに置いてある電話であれ、オフィスの机の上の電話であれ、我々は、誰かが電話に向かって話をしている時には、その人間のことをなるべく無視しようと努めるのだ。
 たとえば、妹が階段の下にある電話で長電話をしている時、私は、なるべく階段に近付かないようにする。どうしても階段を通らなければならなくなったら、「もうすぐそっちを通るぞ」という感じの足音を立てながら、駆け抜けるようにして階段を降り切る。
 もちろん、私とて、妹がどんな男とどんな話をしているのかについて、興味がないわけではない。が、私は、市民社会に生きる人間として、その興味を押し殺す。
「ここで盗み聞きなんかをしたら、オレは最低のクズ野郎になってしまう」
 と、そう思って、私は一目散に階段を駆け下りてトイレに駆け込むのだ。
 ともかく、そうやって、我々は、「電話のプライバシー」を守るべく、日夜努力している。だからこそ、我々は、面と向かってはとても言えない恥ずかしいセリフを、受話器に向かってならば、なんとか吐くことができるのであり、そうであるからこそ、恋は生まれ、人々は生きているのである。
 ところが、携帯電話は、その我々の電話プライバシー死守の努力を、いともあっさりと踏みにじる。病院の待合室、駅のプラットホーム、公園のベンチ……そういう、こっちがわざわざ聞き耳を立てるまでもなく、すべての会話が丸聞こえに聞こえてしまう公共の空間に、携帯電話は、唐突に、ぶらりと、土足のままで入り込んでくる。そして、その携帯電話の持ち主は、臆面もなくプライベート通話を始め、周囲の人間たちのパブリックなモラリティーに泥を塗るのである。
(『仏の顔もサンドバッグ小田嶋隆
 わたしが思うに、そういう考えに頼って複雑さをもとめてしまうのは、不安になると何か特別に感じられるような理由が欲しくなるからではないだろうか。秘密の知識を持てば、それは特別に感じられるが、単純な真実を手にしてもそうは感じない。つまり、わたしたちの自我は、自分が他者よりどこかしら優れていることを示すために、特別な知識を手にしていると信じさせたがるのだ。わたしたちの自我は、一般に知られる真実だけでは我慢できない。自我は秘密をもとめている。(『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術カーティス・フェイス:楡井浩一訳)
 もはやクルマ自体では利益が出ない。中小型車は売っても赤字になるだけ。だから、その赤字を自動車ローンの儲けで回収する。つまり、クルマは金融を動かすための材料にすぎないというわけだ。こうなると、GMもフォードも、もう自動車メーカーというより「自動車もつくる金融会社」になってしまったという感じだよね。GMも金融部門が独立した会社になっているけれど(GMAC=通称ジーマック)、そこがGMグループのなかでだいたい6割くらいの利益を出していたんだ(金融危機が勃発するまでは)。(『ドンと来い!大恐慌藤井厳喜
 搾取の最たるものは、税金といえるかもしれません。税収が適正に使われていれば、そのお金は国民の懐にそっくり返ってくることになり、お金は循環し、経済は成り立ちます。ところが、本来循環すべき税金が途中でどこかに消えてしまうのです。みそがれた高貴な集団に属する人々の懐に流れたお金は、次なる搾取を行うための事業資金などに使われ、奴隷をさらに奴隷化するために使われていくというわけです。
 消費という面でも、奴隷の搾取は強化されています。
 さし迫った必要性がなく、利幅ばかり大きい商品を買わされることで、少ない実入りからさらに搾取を重ねられるわけです。支配者はそのために「ブーム」をつくり、消費をあおります。ブランドブームなどはそのひとつです。
(『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて苫米地英人
 叡智という古い言葉の本来の意味合いは、頭脳の働きばかりではなく眼の働きを指す。物を深く見る視力が、そのまま化して知恵となる、そういう知恵を言う。(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること小林秀雄
 思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんとことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深きとこ所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ。(『遠野物語』)『遠野物語・山の人生柳田國男
 ここで、もう一つ、1920年代の特異性に影響を与えたと思われる「革命」に触れておかねばならない。
 それは照明革命である。それまでアメリカでは、照明用の油として鯨からとった油を使っていた。大西洋の鯨を獲りつくし、遠く北太平洋まで鯨を捕えに出かけなければならなくなった19世紀半ば頃には、鯨油の価格はバレル当たり100ドル以上もしていた。当時照明はたいへん高くついた。照明は大衆のものではなかった。
 それが、1860年代以降、石油から取れる灯油が使われるようになると、照明用の油の価格は、一挙に数十分の一に低下したのである。石油の需要は1860年以降驚くべき勢いで増大した。当時、石油はほとんどすべて灯油として使われていたのだ。したがって石油需要の増大は、価格革命によって、照明が大衆のものとなったことを示唆している。
 アメリカの大衆は、明るくなった夜をどのように利用したのだろうか。家族との団欒、あるいは隣人とのつきあい、しかし結局、テレビやラジオもない当時、人びとは明るくなった夜を次第に読書に利用するようになったのではないか。最初は聖書だったかもしれないが、だんだんと人びとの知識欲は旺盛になっていったと思われる。
(『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか関岡正弘

イノベーション
 アダンの林が途切れ、白い道は松の防風林に入った。おれはとうとうそこで立ち止まった。しゃがみこんで、深いワークブーツの紐(ひも)を解き、最初から通した。足首をすっかり覆う一番上の穴まで靴紐を通し、きつく締めて足首を固定しようとしていた。もう歩くだけではどうにもならなかった。靴紐を結びながら、不意に耳元まで「戦いたい」という思いがこみあげ、紐を握った指が震えた。革ジャケットのファスナーも喉元まで上げた。歩は次第に早まり、奥歯に力がこもった。久しぶりに顔の筋肉がこわばっていく緊張を覚え、首の付け根のあたりから鳥肌が沸き立つのを感じた。おれの足が走り出そうとしていた。
「走るな」そう声にして自分へ言った。一度走り出してしまえば、どこへその道が通じているのかはわかりきっていた。ただつらいばかりで、報われることの少ないあの道へ、また戻るハメになる。古い血のシミが斑点(はんてん)の模様を創ったキャンバスと、逃げ場をさえぎるロープと、それ以外に何もない、ただ殺風景なあの場所へ戻ることになる。
(『汝ふたたび故郷へ帰れず飯嶋和一

ボクシング
 テクニカル分析の前提は三つある。
A 市場の動きはすべてを織り込む。
B 価格の動きはトレンドを形成する。
C 歴史は繰り返す。
(『先物市場のテクニカル分析ジョン・J・マーフィー
 知識の量を自慢したり、上等のことを知っているというので得意になっている人がいるが、そういう人を、人として上等だとは思っていない。
 たとえば大学の試験など、教科書、参考書、辞書を持ち込んでもいい。高度な学問のためには大量の知識を必要とするが、本来はそのような本を見ればすむことなのだ。社会に出たら文献はもちろん、他人の頭まで使ってよいのだ。
(『独創は闘いにあり西澤潤一
 十全に開発された性衝動と精神性は自己陶酔はしないのであり、情動のエネルギーと生命エネルギーが全身に伝導するのを必要条件としてこそ、開発された性衝動と言える。関係構築、意思疎通、相互関与。それだけが、自己陶酔的で小賢しい操作をする性の手管を治す治療法になる。だから、恋人たちが全身の伝導を経験したいと思っているのなら、性器の液体を交換するだけでなく、内密にしている孤独な術策、性的傾向、習慣を互いにあらいざらいさらけ出さなければならない。二人はタブーというタブーを捨てて、互いの目の前で最も内密な想像を表に出しきることが必要だ。それこそが密着の始まりである。というのも、現にもっている傾向をあらいざらい互いに教え合って、その内容のことで相手を貶めたり非難したりせずに、くつろいだ行為、思いやり、相手への検分に時間を費やすなら、充実した感情が湧き上がってきて、それまで自己閉塞と自己逃避に閉じこめられていたエネルギーが循環できることになるからである。二人がすべてをさらけ出し続けるなら、分離の感覚を解消する手段としての通常のオルガスムは、いよいよその必要がなくなる。全身に拡散した長時間にわたる生命力の伝導、深い思いやり、相互の密着が生じて、オルガスムの代用になるわけだ。(『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南ジェイムズ・M・パウエル:浅野敏夫訳)

性愛術
 蜂には紫外線が見えるそうです。彼らは花の蜜を嗅ぎ当てるのではなく、見つけるそうです。花の外から蜜の色が見えるというのです。蜂に見えている世界は私たちが見ている世界とは違うでしょう。可視光線、可聴音域を超える生物には同じ世界が違って見え、聞こえるのです。
 私たちは自分の目で見たものは、そのものの真実の姿だと思ってしまいます。
 しかし対象物は、液体である水が固体(氷)や気体(水蒸気)にもなるように、その時々の条件や私たちの識別能力によって、さまざまに姿を変えています。同じ物を同時に見るときでさえ、その人の視力などの能力や立場、潜在意識、固定観念、先入観、嗜好などによって見えるものが違ってきます。人はそれぞれに見ているもの、見えているものが違うのです。対象物には私たちが考えるような「たった一つの真実の姿」などはなく、あなたや私の目にどう映っているかだけなのです。
(『実践 生き残りのディーリング 変わりゆく市場に適応するための100のアプローチ矢口新

為替
 肉体が活動を停止すると、たまった体液が放出される。死体を扱うのに最適なのは体液がしみ出る前だ。死後硬直が始まると、死体は膨張して大きな黒い水泡になり(ルイジアナの情け容赦ない暑さではそのスピードが速い)、しまいに皮膚がはじける。そのときの匂いは、味になる。わたしは死の味が舌や喉や肺をびっしり覆ってしまうとは知らなかった。煙草を吸ってもだめだった。コーヒーや、思いつく中でもっとも刺激の強いアルコール、ストレートのジンですすいでもだめだった。死体に触れたあと何日間も死を味わわされた。(『あなたに不利な証拠としてローリー・リン・ドラモンド:駒月雅子訳)
「え、戦あね、気の持様だ。もう止(や)めるだろう、いつ止めるだろう、そんな事を考えちゃあ、考げえた方が敗けるんだよ。とことん迄対手(あいて)をやっつけなくちゃあ止めねえ覚悟が第一だね。その覚悟せえしっかりしてれあ戦あきっと勝てるもんだよ」(『勝海舟子母澤寛

勝海舟
 この男には不思議な魅力があった。人間の不純性と純粋性を兼ね合わせていて、つまり、その相対性のなかに彷徨(ほうこう)をくり返していた男である。善意悪意、潔癖と汚濁、大胆と小心、勇気臆病といった相反するものを総合した人間といえるだろう。徹底して多くの人に嫌われる一方、また、多くの人に徹底して愛された男である。(『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯団鬼六

将棋