今、世界的に見ると農業というのは先進国ほど発展しているんです。フランスしかり、アメリカしかり、カナダしかり、オーストラリアしかり、ニュージーランドしかりです。
 日本の農業が弱いというのは私に言わせると円が強過ぎるせいなのです。円が強過ぎるがゆえに外国の農産物が安く買えて競争力がなくなってしまったのです。(中略)また円が強過ぎるがゆえに外国米がどんどん入ってきます。円が弱くなれば農業は回復する。農業が回復するということは経済学的にどういうことかっていうと、日本人が中国の農地を売って、日本の農地を買い戻すということなのです。
(『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義藤巻健史
 天才とは、自分が陥った環境から自身を自由にし、それを乗り越えていく者のことです。(1928年)『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集J・クリシュナムルティ:大野純一訳
 性差についても見ておくことにしましょう。自閉症は、男の子に多く見られます。その比率は男児4に対して女児1の割合で出現していると一般的にいわれています。カナーが自閉症の報告をしてから10年後にカナー自身によって、この比率が確立されました。男児の場合は軽度の自閉症児が多くいます。反対に女児の場合、ほとどが重度です。数は男児よりも多くありませんが重い症状を患います。しかし重度の自閉症の男の子の人数を見てみると、実は女の子の比率とほぼ同じになります。(『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか酒木保
 時間は体重の1/4乗に比例するのである。
 体重が増えると時間は長くなる。ただし1/4乗というのは平方根の平方根だから、体重が16倍になると時間が2倍になるという計算で、体重が16倍なら時間も16倍という単純な比例とは違い、体重の増え方に比べれば時間の長くなり方はずっとゆるやかだ。
 この1/4乗則は、時間がかかわっているいろいろな現象に非常にひろくあてはまる。たとえば動物の一生にかかわるものでは、寿命をはじめとして、おとなのサイズに成長するまでの時間、性的に成熟するのに要する時間、赤ん坊が母親の胎内に留まっている時間など、すべてこの1/4乗則にしたがう。
 日常の活動の時間も、やはり体重の1/4乗に比例する。息をする時間間隔、腸が1回じわっと蠕動(ぜんどう)する時間、血が体内を一巡する時間、体外から入った異物をふたたび体外へと除去する時間、タンパク質が合成されてから壊されるまでの時間、等々。
(『ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学本川達雄
 私は「大根役者のように振る舞え」といっています。
 大根役者の演技は、ちょっと大げさです。しかしメッセージは明確です。一方名優と呼ばれる人の演技は、抑えた表現をします。そのほうが自然に見えますし、表現があいまいな分、観客は自分のことと重ね合わせて感情移入できるのです。
 ところがカウンセリングでは(とくにその最初の部分では)、名優より大根役者の演技のほうが、有効なのです。だからカウンセラーもはじめは、少々大げさな「大根役者的演技」から技術を磨いてください。
(『目からウロコのカウンセリング革命 メッセージコントロールという発想下園壮太
 西欧には、数学的真理は数学者が創造したものなのか、それともすでに存在していたものが彼らによって暴かれただけなのか、という論争が昔からある。ラマヌジャンは紛れもなく後者の陣営に属していた。数字とその数学的な関係式は宇宙の成りたちを知るための重要な手がかりだ、と彼は考えていた。新しい定理が発見されるたびに、底知れぬ無限の断片がひとつずつ明らかにされてゆく、と。従って「神についての思索を表現しない方程式は僕にとって無価値である」と友人に語ったときの彼は別に愚かだったわけでも、巫山戯(ふざけ)ていたのでも、洒落(しゃれ)気があったわけでもなかったのである。(『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャンロバート・カニーゲル田中靖夫訳)
 の価値観の筆頭は「卑怯を憎む」だった。が常に私の喧嘩を制止したのに比べ、父は喧嘩を教材として卑怯を教えた。
 私が妹をぶんなぐると、母は頭ごなしに私を叱りつけたが、父はしばらくしてから、「男が女をなぐるのは理由の如何(いかん)を問わず卑怯だ」とか「大きい者が小さい者をなぐるのは卑怯だ」などと諭した。兄と庭先で喧嘩となり、カッとなった私がそばの棒切れをつかんだ時は、「喧嘩で武器を手にするのは文句なしの卑怯だ」と静かに言った。卑怯とは、生きるに値しない、というほどの重さがあった。学校でのいじめを報告すると、「大勢で一人をやっつけるのはこの上ない卑怯だ」とか「弱い者がいじめられていたら身を挺してでも助けろ。見て見ぬふりをするのは卑怯だ」と言った。
 小学校5年生の時、市会議員の息子でガキ大将のKが、ささいなことで貧しい家庭のひ弱なTを殴った。直ちに私がKにおどりかかって引きずり倒した、と報告した時など、父は相好を崩して喜び、「よし、弱い者を救ったんだな」と私の頭を何度もなでてくれた。
(『祖国とは国語藤原正彦
 右脳が左脳にくらべて情緒的に不安定な傾向があることは、かなり前からよく知られている。左脳に卒中を起こした患者は、不安や抑うつにおちいったり、回復の見込みについて気をもむことが多い。これは左脳が損傷を受けたために右脳が優性になり、あらゆることに悩むようになったからだと思われる。この反対に右脳に損傷を受けた人は、自分の困った立場にまるで無頓着な傾向がある。左脳はあまり動揺しないのだ。(『脳のなかの幽霊V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー:山下篤子訳)

脳科学脳血管障害
 第三に、国の会計のあり方の問題である。そもそもわが国政府は憲法違反を犯し、法律に反した財政運営を行っている。憲法第83条は「国の財政を処理する権限は国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と謳っている。
 しかし、国の一般会計予算から特別会計、特殊法人などへ年間約30兆円も投資されており、この財務については現実には国会の与(あずか)り知らぬところとなっている。特別会計における“公共事業”などの事業予算・箇所付けについても国会を素通りして決定されているのである。
(『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!石井紘基
プロテスタンティズムの倫理」ことウェーバーの思想の源泉は、ルター、カルヴィン、バクスターなどの16、17世紀の宗教思想家たちの著作にあるが、彼はその解釈の中心に「天職」の概念を据えた。天職とは人生における基本的な務めであり、定められた努力をする選ばれた領域であり、そしてそれを決定したのは、ルターらによれば、神である。スラッカーたちに往々にして欠けているもの、私の息子に欠けていたと思えるものは、まさにこの天職なのだ。そしてスラッカーという概念と同じように、天職という概念も比較的最近の文化的発明である。ウェーバーが着目したように、それは、いにしえの時代やカトリックの神学には存在せず、宗教改革の産物なのである。
 天職という概念の新しさは、人間の生涯の仕事を「個人の道徳的活動がとりうる最高次の形態」に変えたところにある。
(『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たちトム・ルッツ:小澤英実、篠儀直子訳)

マックス・ウェーバー
 貨幣取引では、貨幣を受け取る側が何らかの社会的劣等感を経験する。お客様は神様で、上司は常に正しく、あなたは常に間違っている側にいる。自分の物品や労働力を売って生計を立てることには、隷属がついてまわる。(『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学アーロン・ブラウン:櫻井祐子訳)
法律など蜘蛛の巣のようなものだ――弱者は搦(から)め取られるが、強者は引っかからない」(『メービウスの環ロバート・ラドラム:山本光伸訳)
 ここで注意したいのは、当然だが、死亡保険金を受け取るには必ず死体検案書(死亡診断書)が必要なことだ。この点からすると、たとえば富士山の青木ヶ原樹海などで人知れずこっそり死のうなどというのは、ロマンチックではあるが非常に独りよがりな自殺方法だといえるだろう。死体が見つからなければ、当然死体検案書は出ないし、死亡届も出せない。
 遺族は死亡保険金がもらえないばかりか、「行方不明者」とされたあなたの財産を売買したり名義変更することもできない。婚姻者がいれば、相手はそのままでは再婚できない状態になる。
 それが7年続けば、「失踪宣告」をしてやっと死亡したことにしてもらえるが、死亡保険金に関していえば、その7年間遺族は保険料を払い続けなければもらえない。平均年間保険料の61万円で換算すれば、61万円×7年=427万円が無駄になるのだ。
(『自殺のコスト雨宮処凛
 だいたい、バブル紳士などと言われるようでは最初からなっていない。本当の投機家は、投機のジャングルに出かけるときには緑の保護色をまとい、そうでないときは普通の社会人としての保護色をまとっている。普段はベーシックな業務に精を出し、腹七分目でサッサとカジノを去っていく。そして何年間でも次の機会を待って読書三昧に夜を過ごし、バブル紳士の没落のプロセスなどを醒めた眼で観察しているものだ。(『投機学入門 不滅の相場常勝哲学山崎和邦
 日本人の描いた〈風〉なら、江戸時代の僧・良寛(りょうかん)が書いたこの〈〉が一番。
 筆尖(ひっせん)が紙に垂直に打ちこまれる第一画の起筆(きひつ)の確かさがいい。加えて、第二画の転折(てんせつ)以降の、世界にうちふるえる繊細さがまたいい。孤独の痛さに耐え切る強さと世界を慮(おもんぱか)る弱さの合体した姿が美しい。書は環境の芸術なのだ。外の風はまだ冷たい。風邪を引かれないように。
(『一日一書石川九楊
「わたし、この病気でよかった。たくさんの人たちのいたみを知って、たくさんの人たちに出あうことができたもの。骨肉種さん、ありがとう、っていいたいくらいよ。みんなが、こんなにわたしをね、思っていてくれる……。だから、わたし……、世界一、しあわせ。ねぇ、ママ、わかってくれる」(『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ綾野まさる猿渡瞳
 この「社会」ということばは、societyなどの西欧語の翻訳語である。およそ明治10年代の頃以後盛んに使われるようになって、1世紀ほどの歴史を持っているわけである。
 しかし、かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本になかった、ということである。
 やがて「社会」という訳語が造られ、定着した。しかしこのことは、「社会」-societyに対応するような現実が日本にも存在するようになった、ということではない。そしてこのような事情は、今日の私たちの「社会」とも無縁ではないのである。そこで、societyの翻訳がいかに困難であるか、そのことを実感していた時代をふり返る必要がある、と私は考える。
(『翻訳語成立事情柳父章
 不作為ですよ。今の日本外交の一番の問題は不作為なんです。余計なことを背負い込むのは嫌だと。だから私はまだ外務省の処分を受けていない。処分するには聴聞しないといけない。聴聞になった場合、マスコミに公開した形で行うということを代理人(弁護士)を通じて外務省に申し入れた。そこで私は今まで黙っていたことを話す。そう伝えたら外務省は処分について一切言ってこなくなりました。(『国家の自縛佐藤優
 神仏や聖人でないわれわれでも、話すことよりも聞くことをよしとするのは同じです。その証拠にわれわれは「しゃべりすぎた」という反省はよくしますが、「聞きすぎた」反省はほとんどしません。
 これは情報の発信者と受信者の行動を考えるとわかりやすいでしょう。情報の発信者は、受信者の反応が返ってこないことには、相手が情報をどう思ったかわからないのです。受信者は、情報の受け取りも放棄も、自分の気持ちしだいです。情報がいらなければ捨てることさえできるのです。いらないダイレクトメールのように。その意味で発信者が情報をコントロールしているように見えますが、じつは本当にコントロールしているのは、受信者のほうだといえるでしょう。
(『プロカウンセラーの聞く技術東山紘久

カウンセリング
 おのれの過去にかかわる自負や誇りにこだわっていたら、明日、というより生涯を貫く自負と誇りを失うことになる。(『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論佐瀬稔

ボクシング
 視点を高くすることを、カント以降の分析哲学では、抽象度を上げる、と言います。(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション苫米地英人
 一見逆説的なことに、すぐれた芸術作品には、どこか、人の心を傷つけるところがある。人は、芸術作品に接することで、積極的に傷つけられることを望むとさえ言えるのである。
 傷つけるといっても、もちろん、心ない言葉のように不快な形で傷つけるのではない。その瞬間に、何かが自分の奥深くまで入り込んで来たような気がする。ああ、やられたと思う。その時の感覚が何時(いつ)までも残り、脳の中で、何らかのプロセスが進行しているのが感じられる。その過程で、世界について、今まで気づかなかったことに気づかされる。優れた芸術は、そのような形で、私たちの心を傷つけるのである。
(『脳と仮想茂木健一郎
リグ・ヴェーダ』に含まれる10点近い宇宙創造に関する讃歌(紀元前10-9世紀の成立)のうち、「宇宙開闢(かいびゃく)の歌」(10・129)は次のようにうたう。

一、そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。空界もなく、その上の天もなかった。(中略)深く測ることのできない水は存在していたのか。
二、その時、死も不死もなかった。夜と昼のしるしもなかった。かの唯一物は自力によって風なく呼吸していた。これより他の何も存在しなかった。
三、始原の時、暗黒は暗黒におおわれた、この一切はしるしのない水波だった。空虚におおわれて現れつつあるもの、かの唯一物は、熱の力によって生まれ出た。
四、最初にかの唯一物に意欲が現われた。これは思考の第一の種子だった。詩人たちは心に探し求めて、有の始原を無に見つけた。(以下略)

(『はじめてのインド哲学立川武蔵

哲学
 1841年にカナダのプリンスエドワード島東岸の町で生れたチャールズ・フランシス・コフランは、当代きってのシェークスピア劇の名優だった。
 1899年11月27日、コフランはアメリカ南西部にあるテキサス州の港町ガルベストンでの公演中に、突然の病に倒れてまもなく亡くなった。遺体は、遠く離れた故郷に送るのは無理だったので、鉛で縁取った棺に入れられ、町の共同墓地にある石造りの地下納骨所に埋葬された。
 およそ1年後の1900年9月8日、大きなハリケーンがガルベストンを襲った。大波が墓地に激しくたたきつけ、納骨所はめちゃめちゃに壊れた。コフランの棺は波にさらわれてしまった。
 棺はメキシコ湾に流され、そこからフロリダ沿岸を漂流して大西洋に達し、メキシコ湾流に乗って北に運ばれた。
 1908年10月、プリンスエドワード島の漁師たちが、風雨に打たれてひどく傷んだ長い箱が浅瀬に浮かんでいるのを見つけた。9年の歳月を経て、チャールズ・コフランの遺体は5600キロも離れた町から故郷に帰ってきたのである。棺は島の人びとの手で、彼が洗礼を受けた教会の墓地にあらためて埋葬された。
(『本当にあった嘘のような話マーティン・プリマー、ブライアン・キング:有沢善樹訳)
「恨晴らし(ハンブリ)」
 という言葉が韓国語にはあるが、それだ。「恨(ハン)」を持った者には、「恨晴らし(ハンブリ)をするまで「恨(ハン)」が宿る。そして多くの場合、「恨」は内に沈殿してその者の生活すべてに負に作用する。「恨」を昇華させなければならない。
(『無境界の人森巣博
 私流に言い替えれば、公共圏・共同性を欠いた悪しき意味での「私化」が進行しているのである。公共圏・共同性が求められているのは確かだと思う。しかし、現在の「私化」は、旧来の公共圏・共同性が若い世代に通用しなくなったことを背景として生じているのであり、いま求められているのは新たな公共圏・共同性ではないだろうか。それなのに石原(慎太郎)は、忠臣蔵物語を持ち出すことによって、若い世代にはもはや通用しなくなった「滅私奉公」の世界を復活させようとしているのである。
 公共圏・共同性のモデルとして、忠臣蔵という近代日本の覇権的男性性を持ち出すことは、ポストモダン状況においてはアナクロニズム以外の何ものでもない。
(『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学熊田一雄
 ーロッパの世界というのは、三つの柱から成り立っていると言えると思います。corpuschristianaum(キリスト教世界)――すなわちユダヤ・キリスト教の一神教の伝統、ギリシア古典哲学、そしてローマ法の三つから構成される文化統合団体です。この三つから成る一つの文化体系がヨーロッパなのです。(『国家の崩壊佐藤優