恐怖が、徐々に僕の心を麻痺させて行った。僕の覗き込んでいる地階の夜の中には、呪詛と憎悪と怨恨と嫉妬とに充ち満(ママ)ちた悪の深淵が開いている。ただ僕は、それが記憶から喪われた過去の幻(ママ)象なのか、まだ生まれない未来の感情の先駆なのか、知ることが出来なかった。しかし僕は暗闇の中に明かに見ていたのだ。魔女の祭壇の大きな器に犠牲たちが一つに煮つめられるように、人間の体験し得るあらゆる悪の素材が塔の奥底に澱んでいることを。(「塔」福永武彦)『筑摩現代文学大系 75 中村真一郎・福永武彦集