「要するにはっきりしたことは分からないので、ただ近世の百姓一揆の中で、この生瀬乱ほど残酷な処分をうけた例はほとんどないことを注意したい。当時小生瀬の人口がどれほどあったか知らないが現在1882人(40年3月31日)であるから、その4分の1としても500人に近い数であったろう。それが代官手代一人を殺したといってみなごろしにされたので、戦国の余燼(よじん)の消えないころであるにしても無惨な話である。今の住民は御代家をのぞいてはみな新しいので、私の家などもその中であるが、封建社会というものの暗さを表示する大きな一例といえる」(『覚書 幕末の水戸藩山川菊栄

神無き月十番目の夜