天下の宰執(さいしつ)というべき薛公(せっこう/孟嘗君)に会ったというただそれだけの経験が、肚(はら)のなかにどっしりとすわっている。薛公は人にけっして恐怖をあたえない。むしろ、この人には以前どこかで会ったのではないかという親しげなものやわらかさをただよわせている。天下の信望を集める人とは、あのようでなくてはなるまい、と楽毅は痛感したことがある。(『楽毅宮城谷昌光